2011年 08月 15日
日本で初めての裸婦の洋画 |
日本で初めての裸婦の洋画はそれまでは黒田清輝の「朝粧」で、明治26年(1893年)に描かれ、それが明治28年に発表されると、猥褻として社会問題になりましたが、それよりも13年前の明治13年(1880年)に岐阜出身の山本芳翠(1850-1906)によってパリで描かれ、その絵が新潟県新発田市の医院に30年間も応接室に展示されていました。今は、県立岐阜美術館に保管されています。
同じ医院に展示されていた山本芳翠の「若い娘の肖像」です。これも岐阜美術館にあります。
これらの絵の制作を依頼したのは、新潟県新発田の豪商であった白勢和一郎(1860-1912)でした。馬に乗った肖像画も依頼したのですが、この絵の保管が悪く、かろうじて顔の部分だけ残されました。この絵は東京美術館に保管されています。
「裸婦」と「若い娘の肖像」は、白勢和一郎の父成凞(なるあき)(1838-1904)が同じ新発田の桂医院に譲ったのでした。これらの絵が世に知られるようになったのは、この絵を守るために、桂氏がスライド写真にして昭和39年(1964年)に東京国立博物館に持ち込んでの時だったのです。
白勢和一郎の父である成凞(なるあき)は明治天皇北陸巡行に新潟と新発田で宿泊所を用意しました。行在所碑のあるところは児童公園になっています。隣は芳翠の絵を譲り受けた桂医院です。
これらの絵の制作を依頼したのは、新潟県新発田の豪商であった白勢和一郎(1860-1912)でした。馬に乗った肖像画も依頼したのですが、この絵の保管が悪く、かろうじて顔の部分だけ残されました。この絵は東京美術館に保管されています。
「裸婦」と「若い娘の肖像」は、白勢和一郎の父成凞(なるあき)(1838-1904)が同じ新発田の桂医院に譲ったのでした。これらの絵が世に知られるようになったのは、この絵を守るために、桂氏がスライド写真にして昭和39年(1964年)に東京国立博物館に持ち込んでの時だったのです。
白勢和一郎の父である成凞(なるあき)は明治天皇北陸巡行に新潟と新発田で宿泊所を用意しました。行在所碑のあるところは児童公園になっています。隣は芳翠の絵を譲り受けた桂医院です。
by katuheiyamalove
| 2011-08-15 22:08