2012年 07月 21日
源義朝の最期 野間大坊にある墓 2012,7,21 |
源義朝(1123~1160)は保元の乱に後白河天皇方に参加し、白河殿を陥れ、佐馬頭となったが、清盛と不和となり、藤原信頼と結んで平治の乱を起こし、敗れて尾張に逃れ、長田忠致(おさだただむね)に殺された。
(1)NHK[平清盛」では鎌田正清と刺し違えいて亡くなることになっている。左から義朝、正清、そして忠致。
(2)尾張国野間(現愛知県知多郡美浜町)にある義朝の墓。現地では、義朝は入浴中に襲撃され、最後に「我に木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされている。墓には木太刀がたくさん奉納されている。一枚目は十年ほど前に二回目の訪れた時の写真。後はNHKの画面から。しかし、『平治物語』や『愚管抄』には記録されていないから、この木太刀の話は地元の伝承だろう。
(3)正清の墓
(4)野間大坊は正式には大御堂寺
(1)NHK[平清盛」では鎌田正清と刺し違えいて亡くなることになっている。左から義朝、正清、そして忠致。
(2)尾張国野間(現愛知県知多郡美浜町)にある義朝の墓。現地では、義朝は入浴中に襲撃され、最後に「我に木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされている。墓には木太刀がたくさん奉納されている。一枚目は十年ほど前に二回目の訪れた時の写真。後はNHKの画面から。しかし、『平治物語』や『愚管抄』には記録されていないから、この木太刀の話は地元の伝承だろう。
(3)正清の墓
(4)野間大坊は正式には大御堂寺
by katuheiyamalove
| 2012-07-21 22:26