2012年 05月 23日
越すに越されぬ田原坂 2012,5,23 |
(1)西南の役 田原坂公園 2012,5,14
(2)田原坂資料館よりの眺望
「田原坂は熊本城下の北西の台上にあって、その一帯の台地の西端は有明海に落ちこんでいる。田原坂という坂そのものはさほどの傾斜でもないが、そのあたりの地形は複雑で、坂の左右は谷であり、一見、自然の長城をなしている」「薩摩軍はすでに熊本城を包囲していたが、北方から政府軍が南下してきて熊本城と連絡することをふせぐべく、この田原坂を中心に布陣し、南下軍と激突したのである」(司馬遼太郎『街道をゆくⅢ』)明治10年3月4日から16日間にわたる長期の戦闘であった。
(3)「エンフィールド・スナイドル銃」 背後の説明文の中に、双方の小銃弾が空中で衝突して噛みあった「空中かちあい弾」がある。司馬は「いかに凄惨で苛烈な」戦闘であったか、と書いている。「田原坂『行きかい弾』にとどまれる明治の心はるかに思う」
(4)薩摩兵士
(5)官軍兵士
(6)弾痕の家(復元)
(2)田原坂資料館よりの眺望
「田原坂は熊本城下の北西の台上にあって、その一帯の台地の西端は有明海に落ちこんでいる。田原坂という坂そのものはさほどの傾斜でもないが、そのあたりの地形は複雑で、坂の左右は谷であり、一見、自然の長城をなしている」「薩摩軍はすでに熊本城を包囲していたが、北方から政府軍が南下してきて熊本城と連絡することをふせぐべく、この田原坂を中心に布陣し、南下軍と激突したのである」(司馬遼太郎『街道をゆくⅢ』)明治10年3月4日から16日間にわたる長期の戦闘であった。
(3)「エンフィールド・スナイドル銃」 背後の説明文の中に、双方の小銃弾が空中で衝突して噛みあった「空中かちあい弾」がある。司馬は「いかに凄惨で苛烈な」戦闘であったか、と書いている。「田原坂『行きかい弾』にとどまれる明治の心はるかに思う」
(4)薩摩兵士
(5)官軍兵士
(6)弾痕の家(復元)
by katuheiyamalove
| 2012-05-23 21:43